「枠は、はみ出すためにある。」
どの範囲でやればよいか、枠を求める。
枠の中で、目一杯、広く深く追求する。
ルールはルールでそれを守ることが重要、そこで苦労してなんとかやろうとする。
しかしながら、技術開発やビジネスやスポーツやロボコンや国際会議では、枠は変化し新しいルールがどんどん適用されていく。
はみ出せば、それが新しい枠になる。
枠は、新しくつくればよい。
枠をつくる側にならなければいけない。
新しくすることに躊躇していてはいけない。
待っていてはいけない。
GO ahead!
「枠は、はみ出すためにある。」
どの範囲でやればよいか、枠を求める。
枠の中で、目一杯、広く深く追求する。
ルールはルールでそれを守ることが重要、そこで苦労してなんとかやろうとする。
しかしながら、技術開発やビジネスやスポーツやロボコンや国際会議では、枠は変化し新しいルールがどんどん適用されていく。
はみ出せば、それが新しい枠になる。
枠は、新しくつくればよい。
枠をつくる側にならなければいけない。
新しくすることに躊躇していてはいけない。
待っていてはいけない。
GO ahead!
先日、本社(福井)の新年会に参加しました。会社近くの新しくできた居酒屋にて。
4月入社予定の新人クンも参加、「キンチョーして来ました」と本人談。でも食事も進むうちに、笑いでうちとけていたようです。
メインは鍋
宴も進み「誰かのことを3つのポイントで表す、それが誰かをみんなで当てる」ゲームの始まり。例えば「酒好き、豪快、でもちょっと寂しがり屋」と誰かが書いたのを発表して、それが誰のことを表現しているのかみんなで当てるわけです。3つ書くんですが、1発目の表現でわかってしまったり、「私はそんなんじゃなーい」の反論あり、「えーっ!そんな風に思われてるんですか!?」等々、お笑いネタも多く進行する中、私のことも誰かが書いてくれました。
1発目「冷静」。「誰?誰?」とみなさんわからず。2発目「意外と笑う」。これにはさらに皆わからず・・・・・、(3発目は忘れました)。
「意外と笑う」というのにちょいと驚き。本人はよく笑っているつもりなんですが、周りから見ると「意外」程度。。。。。 ちょっとショックだったなぁ。 最初の「冷静」でわかってくれてもいいんじゃないか、とも言えず、その日はそのまま三次会まで。
夏の甲子園。今年は東北、北信越勢が勝ち進んでいます。
福井県代表の敦賀気比高校も1回戦、2回戦と強豪校に大勝。
こんな記事がありました。
「雪国勢=弱小県」は過去の話…強豪化の秘密は「ネット情報収集」と「近畿とか負けたくない」
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記事引用:
日本文理の飯塚投手が「近畿とか、強いところには絶対負けたくない。そういう意識は皆に広がっていると思います」といえば、星稜の岩下投手も「ほかの地域には負けられないという意識が(北信越のチーム)全体にあると思います」。
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かつては「雪降るところは・・・」とか「関東、関西は強いから・・・」と”自分達で”言ってた時代もあったと思います。
今の若者は強い、そんなオジサン世代の弱気を超えて、また、弱気世代の中にもちゃんと存在していた強気あるオニイサン、オジサンも指導者、運営者としてがんばった成果が表れてきたのではないでしょうか。
以前ブログに書いた、秋田県勢、夏の甲子園で14年ぶり勝利のニュースからの「どうせ、をやめる」でも書きましたように、伸びようとする若者達をオジサン達がネガティブに抑えるようなことがあってはいけません。若者を鼓舞し、オジサン達を大きく超えていってもらいましょう。
夏空
生き物は夏に大きく成長する
5月15日、沖縄が日本に帰ってきてから40年。
1972年は大きな年でした。沖縄の復帰、日中国交正常化、日本列島改造論、札幌オリンピック、音楽界では吉田拓郎の「結婚しようよ」がヒットしフォークソングが一般化し、一方で空前のアイドルブームが始まる。(天地真理、小柳ルミ子、南沙織、郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎、・・・) 日本兵・横井庄一さんがグアム島で発見されたのもこの年。
ニクソンショック、オイルショックと続く中での1972年は、日本が戦後の復興から安定的に豊かになり、都市だけでなく地方へもその豊かさが広がりが感じられるようになった年、ここから日本が先進国として本格的に進む節目の年だと思います。
1972年、私は小学4年生。沖縄復帰は月曜日であったと記憶しています。
1300人くらいの児童全員が集まる全校朝礼は毎週月曜日朝でした。その日、校長先生が壇上から「今日、沖縄が日本に復帰しました」とゆっくりハッキリおっしゃったことを憶えています。小学校6年間、休み以外の月曜日には欠かさずあった全校朝礼ですが、この日の校長先生のお言葉だけが私の記憶にあります。
中学生、高校生の頃は、沖縄は音楽で特別なところであると思ってました。古くは「紫」ってバンドだったり、照屋林助やりんけんバンド、そのうち喜納昌吉を知ったり。マンガは「ワタルがピュン」とか、なぜか沖縄の方言は好きで音楽でもマンガでもずいぶん楽しんだものです。その一方でマンガ「ドーベルマン刑事」なんかで、沖縄と戦争、米軍の関係を知ったりもしたものです。
1987年ころに初めて沖縄に行きました。暑かった、なんかこうジリジリしたのを憶えてます。若造にはゴーヤは苦かった。国際通りのショップで後ろで話していた高校生らしきおにいちゃん達の会話がわからなかったなー。
1990年でしたか、夏の甲子園で沖縄水産高校が沖縄県代表として初の決勝進出。(だったと思います) テレビで観てましたが、甲子園球場での応援たるやものすごく。相手高校の応援アルプス席以外、内野席、ネット裏、外野席ほぼ全てといっていいくらい沖水を応援してました。なにかこうものすごいうなりとうねりがテレビを観ていても感じられたものです。惜しくも敗れ、試合後のインタビューで監督が「こんなに応援してもらい、こんなにすごい雰囲気の中でやらせてもらえた」と感謝されていたことを思い出します。
初めての沖縄から約20年たって、ロボット活用教育の活動で、沖縄の産学官のみなさんとの連携が始まりました。最近では毎年沖縄に行ってます。2010年にはETロボコン沖縄地区大会がスタート、2011年にはWRO Japan沖縄地区予選大会も始まりました。沖縄のIT,ET人材の育成に貢献できればと思っています。ゴーヤも沖縄ソバもすっかり好きになりました、私が年をとったこともあるとは思いますが、そんなこと以上に沖縄はウマイところになってます。けっこうタマランのです。いつも沖縄のみなさんにはお世話になり、たらふく食べてスミマセン。ありがとうございます。
沖縄は芸能、ゴルフ等では若いスターを多く輩出していることはご承知の通りです。IT,ET分野においても若いスターがでてくりゃいいじゃん、そうした思いで沖縄のみなさんと活動を継続していきたいと思っています。
なんくるないさぁ、やってみれ。
ETロボコン2010会場:琉球大学 森の向こうも琉球大、広い
ETロボコン沖縄地区大会
WRO Japan沖縄地区予選会
地区のみなさんが出前&その場でつくってくれた沖縄ソバ。
地元の小学生にもらったフルーツ。
沖縄のみなさんに連れられていろいろ食べました。
連休に、河和田の漆器まつりに出かける。
鯖江市河和田地区は歴史ある漆器の産地である。5世紀に遡るとある。
http://www.fuku-e.com/ippin/kougei/kougei_01.html
地元のメーカ-、販売店が本日特売。 数百円から数万円まで。
使ってよし、贈ってよしの河和田の漆器。
漆器のできるまで ( 山久漆工(株) )
英語では「Japan」と呼ばれるほどの漆塗り、このメーカーには海外向けのサイトもある。
購入した椀。 会社でお菓子入れに使う予定。
女房が探していた「一生使える少し大きめのお重、洗いやすいようにウチ角に丸みあり」を発見し購入。
値引きありの、お祭りにて1割引クーポンありで、手頃な価格で購入できました。
鯖江、武生を中心とした丹南地域は、漆器、和紙、焼物、打刃物、眼鏡枠といった、職人による伝統工芸が盛んなところである。その昔は武生に国府があり、父の転勤にて紫式部も一時住んでいた。
それぞれ体験もできるので、ぜひ。
帰り道。東郷あたりの大麦栽培。
福井の桜。
福井市内にはあちらこちらで桜を見ることができます。
さくら通り。
福井市の中心部を東西に数km以上の桜の街路樹の通りがあります。市の中心部あたりの桜は太く、東、西へ行くほど細くなります、東西に植樹が延びていったことがわかります。通勤、通学、お買い物で花見って感じかな。
福井城跡の桜。夜にはライトアップ&掘りに映って見事。
福井市内中心部を流れる足羽川の堤防。明治そして戦後すぐに植えられた桜が多く大木も多い。( Wiki )
夜にはライトアップされ、橋の灯りとともに幻想的でもある。
堤防はこの季節、桜のトンネルとなる。高校の頃、朝は寄り道してこのトンネルをくぐって学校に行ったもんだ。
こちらは浜町あたり。まさに桜をくぐって行く。
この桜の堤防が市内中心部を東西に数km横たわる。ゆっくり歩きながら全部抜けるにはかなりの時間を要するだろう、私もまだ一気に通り抜けたことはない。
九十九(ツクモ)橋から東西を見る。
江戸時代この川にはこの九十九橋だけであった。半石半木といって、北側(お城があるほう)は木製、南側は石造りで、イザという時には北側を燃やして敵が城側に渡れないようにしたものであると伝えられている。
ここが旧北陸道であり、北側にハシを渡って大きく東側に折れて城に向かう。
春の桜、5月の萌黄、6月の紫陽花と、福井市内は彩りをかえていく。
大阪から福井を通って日本海側を北上する「特急・日本海」「急行・きたぐに」が定期運行終了とのこと。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20120217/dms1202170827006-n1.htm
愚息が中学生の頃、北海道への一人旅に向かったのは「特急・日本海」に乗っかって函館経由で札幌へ、そして道内を巡ったのである。また一方の愚息は大学にはいってからは「急行・きたぐに」の普通席で一人暮らしに出かけたのである。
愚息らが男になる日がくるとすれば、「日本海」「きたぐに」のおかげでもあろう。
ともに福井駅発は夜中、福井駅への到着は夜明け前、きっと母親は眠れなかったことだろう。
今シーズン最後の越前ガニと鴨鍋をいただく
秋田県勢、夏の甲子園で14年ぶり勝利。おめでとう。本人たちにとっては1試合ずつなんだろうけれども、郷土、地域の代表としてはさぞたいへんだったろう。猛練習の成果だと思う。最近では雪国のハンデなんてのも聞かれなくなりましたが、冬場の走り込みなんかはとんでもないものだろうと想像します。 ヤクルトの監督もされた大打者・若松選手(北海道出身)が引退の会見にて涙を流しながら「高校時代の冬場の練習を思えば、プロの練習も平気だった」と話していたのを思い出します。
雪国、14年勝利なしとなれば、なにかこう地元ではあきらめムードがでたり、「どうせ、ダメさ」といった雰囲気、言葉もあったやもしれません。いや、秋田の人達はそんなネガティブではないかも。
私はこの「どうせ」という言葉が大嫌いです。私の住む福井県は人口は少なく全国的な知名度も高くありません。なにかにつけ「どうせ、福井はさ・・・」といった言葉を聞くことがあり、悲しい気持ちになります。「どうせ」は、そこで思考が停止し、何もやらない状態になります。逃げにまわることもあります。何より自分達を卑下しています。
福井の米どころ風景
ですが、実はこうした言葉はオジサン世代に多く、若者はそんなことは思っていないように思います。2002年の日韓Wカップの時、日本vsベルギーだったと思うのですが、遅い昼食で中華料理屋でテレビ見ながらご飯食べていたところ、お店にいたオジサン(お客さん)が「どうせ、ダメさ、日本人は身体小さいんだから・・・」と話しながら食べていたのを思い出します。その試合は引き分けだったかな。
今年、なでしこJapanがWカップを手にしました。日本のサッカーを追求して世界チャンピオンになりました。素晴らしい。どうせ身体が小さいからとかいう意識は若者にはあまりなく、自分たちがやれることを高めていこうぜ、と指導者とともに鍛錬した成果でしょう。私は素人で実情わかりませんが、選手、コーチらの鍛錬たるやモノスゴイものだろうと想像します。まったくレベルは違いますが、愚息がサッカーをやっていて、ちょっとだけサッカーを知っています。やつの高校最後のインターハイの予選を見学にいきました。祖父母も観戦に来てましたね。予選は高校のグランドでやりますから間近で見られるわけですが、前半終了してむこうで見ていた祖父母が「怖くて見ていられない」とこちらに来て下がって見るようになりました。選手達のぶつかり合いが「ドン」ではなくて「ガンッ」とか「ゴキッ」とか骨があたるような音がすると言うのです。インターハイ予選でそれくらいですから、国の代表戦、Wカップの厳しさたるや想像を絶します。
なでしこJapanにも、若松選手にも、秋田代表チームにも「どうせ」という言葉は決してなかったと思います。
伸びようとする若者達をオジサン達がネガティブに抑えるようなことがあってはいけません。「どうせ」は言ってはいけません。「やろうぜ」と若者を鼓舞し、オジサン達を大きく超えていってもらいましょう。
動物も植物も夏に大きく成長する。
東日本大震災以降、世界のあちらこちらで日本への支援についてお聞きします。
弊社はLEGO社(本社・デンマーク)の国内正規代理店ということもあり、デンマークからのご支援について耳にすること多く、遠く北欧の人々に思いをはせるこの頃です。
震災後すぐにLEGO本社からのお見舞いと励ましのレターが届きました。これは東北のお客様、仲間達にも配信し、われわれにとっても励みとなったものです。その後もWRO東北地区への支援等、弊社と協同で進めまています。デンマーク大使の被災地訪問、そしてデンマーク皇太子がわざわざ被災地をご訪問され子供たちの未来にむけて基金設立されました。デンマーク国内においても日本に向けた寄付や支援活動がなされていることを聞いています。 LEGO社、そしてデンマークのみなさまに感謝申し上げます。
そして、世界の友人達に感謝します。
Thank you so much for the expressions of sympathy from LEGO and Denmark to the big earthquake which occured in March.We delivered your letter of encouragement to the disaster area.Fortunately, our customers and friends are safe.They are so impressed with your letter, and are now trying to their usual lives.
We appreciate the visit of the crown prince Frederick to the disaster area, and set up the fund for the children. Also, so warm feelings come over us to know that the Denmark ambassador visited the disaster area just after the earthquake, and many people in your country are praying and donating for Japan.
We may face some difficulties for a while, but we would like to go forward.
We deeply appreciate your friendship and support.
Thank you LEGO.
Thank you Denmark.
and Thank you for all friends in the world.
GOPANが我が家にやってきた。
昨年からずっと検討し、今年に入って注文、数ヶ月待ってようやく入手できました。米そのままからパンつくるってのはスゴイよね。
米だけではできなくて、グルテンとかドライイーストとか・・・必要。お米炊く感じではなくて、”パンをつくる”という手間あり。
初めてのゴパン。
熱くて膨らんでいるのでなかなか取り出せない・・・・。
おー!できてる。
モチモチ感いっぱい。おいしくいただきました。
拙宅では朝はパンが多いので導入に踏み切りました。毎日パンもご飯も食べるという家庭にはうってつけ。これだけGOPANが売れてると、スーパーのパン屋さんの食パン売上は減少するかなー。
GOPANはSANYOブランドのまま出荷されてます。SANYOのエンジニア達がんばったなー。
先週にGOPANが入荷したとの連絡をもらってこの三連休に電機屋さんへ。引き渡し所で娘がGOPANの箱を抱えるのを見てお店の人が「あ、重いから危ないよ」と心配しましたが、娘は「軽い軽い」と言って車まで運んでくれました。
家でさっそく女房が説明書やレシピ本?を見ながら過ごしていると「いけない、迎えの時間を過ぎてる」とあわてています。娘を迎えに行のが30分も遅れたらしい。娘が女房に「GOPANが来たからって何を舞い上がってんの」と笑いながら注意。娘も女房もGOPANが来て嬉しいんだねぇ。
エンジニアの仕事は製品をつくるだけにあらず。家族の喜びと新しい生活を生み出している。
投稿情報: 2011/07/19 カテゴリー: 21.技術者教育, 31.ソフトウェア開発, 61.文化, 62.食の紹介, 63.食(自宅でつくる・手づくり) | 個別ページ | コメント (0)
三枝さん、桂文枝を襲名へ。 大きくした三枝の名前はもったいないが、文枝を継がなければ申し訳ないと。
「五代文枝の至玉の古典は優秀な一門のお弟子さんに任せまして、私は新しい平成の文枝を作ろうと思っています。」と三枝さんが語ったとあります。桂三枝68歳、襲名の来年には69歳。それでなお新しいものをつくろうとするその心意気や素晴らしい。
ちょうどこのニュースが流れた日の夜、同年代のエンジニアのおっちゃんと呑んでいて「いくつぐらいまで突っ走りますか」という質問を受けました。私の頭の中にあったのは永和システムマネジメントの小山相談役でした。小山相談役は40歳で起業し、60歳の時に新しいことやれと私にロボットをやらせてくれて、70歳で経営の第一線から離れました。身近な師匠ですから、私も70歳ってのは節目かなぁなんて漠然と思ったわけです。
三枝さんは68歳でなお新しいことに目を向け、頭と身体を動かそうとしていなはる。一緒に呑んでたおっちゃんと合意したのは年取ってから若いモンの邪魔になるようなことにはならないようにしよう、ということでした。しかし三枝さんは若いモン云々どころか、若いモンができないような創作を続け、さらに先へ行こうとしていなはる。スゴイ。
世界に誇る、落語、創作という日本の文化の担い手であり旗手でありますなぁ。(文珍調)
2009年の調査では日本の男性の平均寿命は80歳となっている。女性は87歳。まだ伸びているらしい。
江戸時代は15で元服・成人扱いであったとある。郷土の偉人・橋本左内先生は15歳で「啓発録」を記されている。
「人生50年、化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」と織田信長が詠んだとありましたが、室町、江戸の時代の15歳は現在のいくつにあたるのかと疑問があります。堺屋太一さんは著書にて「15で元服のころと比較すると現在は1.3倍+3歳くらい」とおっしゃってます。つまり江戸の15歳は現在の22-23歳くらい。なるほど。江戸の50歳が現在の68歳、江戸の60歳は現在の80歳というわけです。なるほど。ただし、この著作は90年代に発刊されたもので、計算式はそれより以前の70年代、80年あたりのことではないかとも思うわけです。
以前から気になっていたことに、女性がどんどん若くなっていることがあります。私が小中学生のころの母親像と現在の小中学生の母親の若さの比較ったらちょっとスゴイことになっているような気がします。それで、江戸時代とまでいかなくて、1970年と2010年を比較するとどうなうんだろうと計算してみました。
結果:1970年ころと比較すると2010年現在は、(1.2倍-2歳)くらい。
1970年ころの20歳は現在の22歳、30歳->34歳、40歳->46歳、55歳->64歳、70歳->82歳です。逆から見ますと、今の40歳は70年ころの35歳と同じくらい、30歳->27歳、50歳->44歳、60歳->53歳となります。実はこれは男性にもあてはまる気もしています。
まだ伸びる平均寿命。私たちが70歳のころにはもしかしたら寿命100歳くらいになっていて、70歳はハナタレ呼ばわりされているかもしれません。
その日は人形町にて。
打ち合わせが夜からなので、まずはタイ焼きで小腹を抑えて。
遅い時間から水天宮界隈へ。
このお店は全国の季節の旨いモンがあるので嬉しい。さすがお江戸日本橋。 一部ご紹介。
ごちそうさまでした。
東大レゴ部の三井さんがレゴ社のプロビルダーに認定された。プロビルダーとは「世界最高レベルのレゴ作品制作能力を持つ一般人」という定義。日本初、世界では13人目とのこと。
毎日新聞記事
スバラシイ。三井さんはレゴ作品をつくることだけでなく、レゴ製作によってチャリティ活動行い、その社会貢献から東京大学総長賞を授与されています。先般のLEGO Education Conferenceにて基調講演もされました。三井さんは東大の工学系大学院所属で数理による工学的アプローチでのレゴ作品製作について紹介されていましたね。
レゴってのはすごいいんですよ、世界中で販売、利用されていて、世界中の子供から大人にまで知られるブランドですので、三井さんの快挙もすぐに世界に発信され、グローバルな活動として認められていきます。 三井さんにインスパイアされて、いろんな方が世界に向かうことを期待します。 私たちも、インスパイアされてまっせ。
日本橋人形町は江戸の町きっての繁華街であった。その名残、江戸創業のお店、日本情緒アフレルお店も多い。そしてなんといっても食である。
人形町に多い食は、鳥、とんかつ、寿司、魚。
焼き鳥、親子丼、鶏肉屋、鳥料理屋がまあ多いこと。寿司屋の数はやたら多く、回転寿司は1件のみ。とんかつは安くて旨いところから高くて旨いところまでバリエーション豊富。魚をおいしくだしてくれるお店も多い。
洋食キラクのポークソテー。これは旨いぞ。オイラのキラク内一押し。
↑トンカツ。 ↓ロースカツ。 ともに柔らかく。
きたなシュラン認定。
しかし、きたなくはないぞ。こぎれいでウマイ。
↑ よし梅の昼の雑炊。冬はカキである。夏場はエビになる。 とにかく冬がオススメである。
↓ よし梅の昼のずけ丼。
板倉屋の人形焼き。 TV「新参者」でもおなじみとなった人形町の人形焼きは3つのお店がある。 (タイ焼きのオイシイのもあるがそれは次回に)
「さつま」。鹿児島の豚肉、焼酎、さつまあげがおいしかったお店のカキ。うまかった。
創業・天保八年 甘味処「初音」
とにかく餡をつかった種類の多いこと。毎日通ってもいいな。
↑ お茶いれてます。
↓ あずきかき氷 あずき白玉クリーム
天保の改革って、水野忠邦でしたっけ?
中央区のコミュニティバス「江戸バス」 中央区内を循環してます。
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