5月15日、沖縄が日本に帰ってきてから40年。
1972年は大きな年でした。沖縄の復帰、日中国交正常化、日本列島改造論、札幌オリンピック、音楽界では吉田拓郎の「結婚しようよ」がヒットしフォークソングが一般化し、一方で空前のアイドルブームが始まる。(天地真理、小柳ルミ子、南沙織、郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎、・・・) 日本兵・横井庄一さんがグアム島で発見されたのもこの年。
ニクソンショック、オイルショックと続く中での1972年は、日本が戦後の復興から安定的に豊かになり、都市だけでなく地方へもその豊かさが広がりが感じられるようになった年、ここから日本が先進国として本格的に進む節目の年だと思います。
1972年、私は小学4年生。沖縄復帰は月曜日であったと記憶しています。
1300人くらいの児童全員が集まる全校朝礼は毎週月曜日朝でした。その日、校長先生が壇上から「今日、沖縄が日本に復帰しました」とゆっくりハッキリおっしゃったことを憶えています。小学校6年間、休み以外の月曜日には欠かさずあった全校朝礼ですが、この日の校長先生のお言葉だけが私の記憶にあります。
中学生、高校生の頃は、沖縄は音楽で特別なところであると思ってました。古くは「紫」ってバンドだったり、照屋林助やりんけんバンド、そのうち喜納昌吉を知ったり。マンガは「ワタルがピュン」とか、なぜか沖縄の方言は好きで音楽でもマンガでもずいぶん楽しんだものです。その一方でマンガ「ドーベルマン刑事」なんかで、沖縄と戦争、米軍の関係を知ったりもしたものです。
1987年ころに初めて沖縄に行きました。暑かった、なんかこうジリジリしたのを憶えてます。若造にはゴーヤは苦かった。国際通りのショップで後ろで話していた高校生らしきおにいちゃん達の会話がわからなかったなー。
1990年でしたか、夏の甲子園で沖縄水産高校が沖縄県代表として初の決勝進出。(だったと思います) テレビで観てましたが、甲子園球場での応援たるやものすごく。相手高校の応援アルプス席以外、内野席、ネット裏、外野席ほぼ全てといっていいくらい沖水を応援してました。なにかこうものすごいうなりとうねりがテレビを観ていても感じられたものです。惜しくも敗れ、試合後のインタビューで監督が「こんなに応援してもらい、こんなにすごい雰囲気の中でやらせてもらえた」と感謝されていたことを思い出します。
初めての沖縄から約20年たって、ロボット活用教育の活動で、沖縄の産学官のみなさんとの連携が始まりました。最近では毎年沖縄に行ってます。2010年にはETロボコン沖縄地区大会がスタート、2011年にはWRO Japan沖縄地区予選大会も始まりました。沖縄のIT,ET人材の育成に貢献できればと思っています。ゴーヤも沖縄ソバもすっかり好きになりました、私が年をとったこともあるとは思いますが、そんなこと以上に沖縄はウマイところになってます。けっこうタマランのです。いつも沖縄のみなさんにはお世話になり、たらふく食べてスミマセン。ありがとうございます。
沖縄は芸能、ゴルフ等では若いスターを多く輩出していることはご承知の通りです。IT,ET分野においても若いスターがでてくりゃいいじゃん、そうした思いで沖縄のみなさんと活動を継続していきたいと思っています。
なんくるないさぁ、やってみれ。
ETロボコン2010会場:琉球大学 森の向こうも琉球大、広い
ETロボコン沖縄地区大会
WRO Japan沖縄地区予選会
地区のみなさんが出前&その場でつくってくれた沖縄ソバ。
地元の小学生にもらったフルーツ。
沖縄のみなさんに連れられていろいろ食べました。
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